唐変木のためのガイダンス

バツイチ・卵巣がん闘病中・統合失調症・ADHD診断済・交際相手有の50代前半女性の日記。

今月は辛い訃報が続く。

弁護士からの電話 
 火曜日の夕方、元夫との離婚後の対応をお願いしている都内の法律事務所の弁護士から、スマホに留守電が。電話をいただいた時は鍼灸治療院で治療を受けている最中で、電話に出ることができなかった。
 実は元夫の代わりに立替えていて離婚までに返済してもらっていないお金が200万近くあり、離婚時に弁護士を立てて「毎月25日までに月x万、年2回のボーナス時はy万、私の都銀の口座に振り込む。」ようにしてもらった。
 高額な立替金と元夫を問い詰めた際の逆ギレに近いあまりにもあっけらかんとした態度に激怒してしっかりと責任を取らせると決めた父の考えと、結婚後に職場の上司の勧めで精神科を受診した後紹介を受けた大学病院で診断済の発達障害アスペルガー症候群ADHD混合型)持ちとはいえここまで非常識だと他の方に今後ご迷惑をおかけするから今のうちにお灸をという私の考えの方向性が一致して、未払いの立替金に担当弁護士と相談の上利子をつけた。
 コロナウイルス禍でボーナス時の金額の返済が難しくなったという話かなと思いながら、帰宅後に担当弁護士の携帯に電話をかけた。

 お金の話ではなかった。

 元夫(Fラン大中退)のフリーター時代の先輩で私とも交流があった女性(以下、彼女)が、がんでの闘病生活の末先月亡くなられたということを私に伝えて欲しいという元夫からの伝言だった。

 私が元義母に強い不信感と恐怖を感じ、また元夫にはもう顔も見たくない口もききたくないくらいの不信感と怒りを持っていることと別居後にストーカー騒ぎを起こされたこともあり、離婚後も連絡は担当弁護士を介してというルールになっている。
 
彼女のこと
 彼女は私と同い年。お父様がスペイン系アメリカ人とのハーフだということもあり、エキゾチックな長身美人。シャム猫を見ると彼女を思い出す。
 彼女と元夫はJR東日本の新幹線や特急電車での車内販売のアルバイト仲間。当時彼女は都内の女子大の学生でスチュワーデス(CA)志望。スチュワーデス予備校に通うお金を貯めるために歩合がついて割が良く、スチュワーデスの仕事につながりそうな車内販売のアルバイトをしていたと話を聞いた。また、おじ様がJR東日本で車掌をされていて、身近だったからとも言っていた。車内販売の仕事は泊まり勤務を伴うので、バイト仲間が自然に家族や兄弟のようなつき合いになり、人嫌いでわがままな元夫でも長くつき合いを続けている友人ができた。
 彼女はスチュワーデスの夢はかなわなかったが他人と接することが好きなこともあり、大学卒業後は大手百貨店に就職。
 しかし、職業病の腰痛や腰椎椎間板ヘルニアに悩まされた。
 恥ずかしながら私もデパートのインフォメーションや化粧品会社の美容部員での就業経験があるので、彼女と職業病の腰痛の話で初対面の時に盛り上がった。
 彼女と初めて会ったのは、元夫と結婚間近の2008年春のこと。1年前に卵巣がんを発症し療養のため実家に戻っていたが寛解したため実家で家事をしつつ、土日祝を含む週4日昼間は地元中心部のホテルでフロントのパートをしていた。パートと家事の間をぬって上京しては、結婚への準備を進めていた。元夫は闘病生活を支えてくれた3年来の飲み友達から交際相手に移行した人だった。元夫と交際する前に婚約者がいたが実家が関東地方の旧家でどうしても跡継ぎが欲しいという家系で、(元婚約者の母親に関西弁の人間は大嫌いとはっきり言われた。)私が西日本出身なのと30歳を超えていたことで最初から私をよく思っていなかったと思われる元婚約者の母親に卵巣がん発覚でここぞとばかりに引導を渡され、破談。落ち込んでいた時に飲み友達の元夫に交際を申し込まれて結婚に至った。徳さんに交際を申し込まれて1ヵ月以上悩んだのは、元夫との交際のいきさつも大きかった。
 その日は元夫の車内販売のアルバイト仲間とその友人の10人近くで、神宮球場でスワローズ対ドラゴンズ戦のナイターを観た。
 ゲームセット後は皆でわいわい総武線に乗って新宿まで移動して、飲み会。
 その時の女性のメンバーは彼女と私だけだったので、自然と隣同士の席に。
 きれいだけど嫌味がない人。さばさばしてるけどがさつさがない人で、都会の人は違うなとひたすら感心した。
 
 彼女は大学卒業後就職した百貨店を椎間板ヘルニアの悪化で退職して、手術。その後友人の紹介で受診した接骨院で治療を受けてから症状が劇的に改善したことに感激。自宅療養を経て、社会人入試で柔道整復師の資格を取得するための専門学校の夜間部に入学。午後診前まで地元の接骨院で働きながら通学した学校を卒業して、都内のオフィスビルの医療フロアの整形外科で働いていた。私、柔道整復師一年生なのと話してくれた彼女の笑顔が輝いていたことを覚えている。
 その日のうちにメールアドレスを交換してメル友になった。盆と正月の最低年に二回はグループで会っていたが、まとめ役の男性が海外に赴任したりメンバーに既婚者や子持ちが多くなったというライフスタイルの変化もあり、集まりは自然消滅。

 2013年春に彼女は転職先の接骨院の同僚と結婚。翌年春にのれん分けのかたちで千葉県松戸市に夫婦で接骨院を開業。多忙なのか彼女からのメールは減っていった。
 私も2014年秋から、父の縁故で社会福祉法人に月6日前後パートで就業するようになった。このパートで何かを見つけた気になって、ライフワークにしようと考えて精神保健福祉士の資格取得のために通信制の大学に進学することを考えはじめた。学費を貯めるために、社会保険労務士事務所への月6日の雇用契約のパートや知人がボーイとして不定期で入っていた完全会員制のスナックのサービスレディの不定期のパートをはじめた。
 元夫への気持ちが冷めはじめた時期で、自分の人生を考え直しはじめていた。
 私自身も人生の過渡期だった。
 彼女、元気かな・・・・接骨院上手くいってるかな・・・・とぼんやり考えることはあったが、彼女にメールを打つ心の余裕はなかった。
 Facebookでのつながりはあったが、彼女も私もあまり更新をしなかった。
 たまに更新をした時はお互いにいいね!を押したりコメントを書き込んだりしていた。
 しかし、2017年初夏に私が関係が良好でなかった中高の複数の同級生から嫌がらせを受け、その嫌がらせが度を越していたこともありつながっていた方達にあいさつもせずに急いでFacebookを閉じてしまった。
 ハッとして、彼女にメールを打ったが返信がなかった。
 私はよく対人トラブルを起こすタイプの人間なので、無意識のうちに彼女に嫌われるようなことをしたのだろうかと申し訳なく思ってそれ以上追いかけることをしなかった。

 それからしばらくして、元夫から彼女ががんで入退院をくり返していることを聞いた。その時期は知人の紹介で文学同人に入ったり、文学賞で最終選考に残って新しく担当編集者がついたり、バンドのボーカルとして今までにない頻度でライブハウスで歌うようになったりと新しい交友関係が拡がっていて彼女への関心が薄くなっていた。

 そして、火曜日に弁護士さんから伝えられた彼女の訃報。
 オンライン上でしかつき合いがないとこんな時に弱い。
 私は自分自身の薄情さを恥じた。今も自責の念に駆られている。
 心の揺れからか彼女の訃報を知らされて以来、頭痛が続いている。

 元夫が弁護士への伝言で残してくれた、「俺達のところと違って彼女の家庭の夫婦仲は良好で、嫁姑関係も良好。両家の家族に看取られて亡くなったとご主人が接骨院Facebookに書いていた。」という言葉が唯一の救いだった。


人の交わりにも季節あり
 友人時代からTwitterを相互フォローしている徳さんが私のツイートを見て心配して、一昨日の夜に電話をくれた。元夫経由の人間関係で徳さんの手を煩わせてしまって申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
 その時に中華民国の政治家の孫文との関係に対して日本の民俗学者・植物学者・生物学者南方熊楠師が述べた、「人の交わりにも季節あり」をどう解釈するかという話題になった。 そして、人間の心の成長具合やライフスタイルや考え方の変化で人の縁が遠くなったり近くなったりするのはおかしくない。自分をそんなに責めることはないと言われた。

 私は精神的に不安定になっていたので、「それなら徳さんとの縁が薄くなるのが怖い。」、「両親と徳さんを遺して死ぬのが怖い。」と泣きながら言った。
 徳さんは私の事をなだめるように、「あいりが死んでも僕が寂しくないように、思い出をたくさん作ろう。」と言ってくれた。
「今のあいりの体調を考えたら、外での野球観戦はご両親も心配されてるし僕も心配だから、日本青年館ホテルに泊まってそこからスワローズ戦を観よう。僕の落研(大学の落語研究会)のスワローズファンの後輩が、開幕戦を日本青年館ホテルで観たから話を聴いてみる。あと、配信でもいいから僕がギターであいりがボーカルでライブで歌おう。」
 徳さんが不器用ながら必死で励ましてくれている様子がわかったので、私も弱気になっていられないと徳さんに悲観的になっていたことを謝ってお礼を言った。
 そして、徳さんに笑顔の声を思いっきり作って、「思い出をいっぱい作ろ。」と言った。
 徳さんは喜んでくれた。

 生きている人間はその日その日を一生懸命生きて、周囲の人たちに楽しい思い出を遺すように努力していかないといけない。
 そう考えた次第。